最終更新日 2024年5月3日
人はいつから他人に対して羨ましい気持ちを持つようになったのか。
たとえば、「年収1000万」「起業して成功」「有名人と結婚」「フォロワー100万人」といった他人を目にすると、自分もそうなりたいと他人を羨ましく思う気持ちを抱く。
人によっては「ずるい」と思うかもしれないし、「どうでもいい」と思う人もいるだろう。
でも、多くの人は自分よりも上の生活をしている人間を羨ましく思うのではないだろうか。
自分よりも年収が数百万上、起業して成功して芸能人と結婚、SNSのフォロワーが数万人。
自分と比較して明らかに相手のほうが上だと感じた場合、人はそこに羨望の感情が湧き上がってくる。
だが、それは主観的に自分と比較した場合に感じる感情であって、客観的に見れば自分より相手のほうが人間的に上なわけではない。
人は何らかの数字や状況によって人間的な差が生じるわけではないのだ。
極論を言えば、引きこもりのニートとビル・ゲイツも人間的には同等の存在である。
幸せそうに見える人が幸せとは限らない
人は他人を主観的な解釈によって判断する。
その解釈に使われるのが数字だったり知名度だったり人気だったりするわけだ。
そうした概念を用いて自分と比較し、相手のほうが上だと感じた場合、人は他人に対して羨望を抱き、人によっては羨望ではなく嫉妬だったり憎しみといった醜い感情を抱いたりする。
もちろん、羨望を抱くこと自体は悪いことではない。むしろ成長するためには誰かに憧れを抱くことは大切である。
でも、自分が憧れを抱いている人は本当に幸せなのか?と考えることはそれ以上に大切だ。
そもそも大多数の人は「幸せになりたい」といった目的を持って生きている。
お金持ちに憧れるのも、芸能人や有名人と付き合ったり結婚したいと思うのも、突き詰めれば「幸せになりたい」といった想いが根底にあるのだ。
しかし、もし自分が憧れる人や羨望を抱く人が、幸せではなかったら?
何度も言うが、人は主観的な世界の中で生きている。
自分が他人に抱くイメージは自分だけのイメージであり、客観的なイメージではないのだ。
他人がどういう気持ちで生きているのかは、外面的な情報からは決して見抜くことはできない。
にも関わらず、人は他人に対する主観的なイメージを数字というわかりやすい指標を用いてつくりだす。
本人から直接聞いたわけでもなく、あたかも「そうあってほしい」という自分の願望を自分自身に押しつけ、自分にとって都合のいい理想的な存在をつくりだすのだ。
幸せそうに見える人が不幸な人かもしれない
芸能人が幸せかどうかはよく議論される問題である。
たしかに、売れれば一般人とは比べ物にならないほどのお金が入るだろうし、多くの人から尊敬されたり憧れられたり羨ましく思われるだろう。
承認欲求もこれ以上ないぐらい満たされ、自分は価値のある人間だと実感できる。
でも、本人は本当にそれで幸せなのだろうか?
近年、幸せとお金は相関しないことが心理学的に明らかになっている。
具体的に言うと、年収が800万円を超えたあたりで、それ以上お金が増えても幸せは感じにくくなるという。
承認欲求なども一時的には快感が得られるだろうが、それは甘いものを食べた後のドーパミンの分泌のようなもので、長続きしない快楽である。
つまり、一時的な快楽も幸せと相関しているわけではない。
そう考えると、自分の時間を一日中差し出して芸能活動したり、一定数存在するアンチの誹謗中傷から与えられる心の傷は、その人を不幸にしているのではないかと思う。
幸せそうに見える人が幸せとは限らないだけでなく、不幸であることも多いのだ。
自分なりの幸せの尺度
「幸せかどうか」と問うと、なんだか宗教的な匂いがプンプンしてくる。
だが、さきほども言ったように、大多数の人間は幸せになりたいと思って生きているのが事実だ。
だからこそ、他人を羨ましく思うときは「その人は幸せなのか?」を考えることが大事なのである。
起業して成功したインフルエンサーは幸せか?
芸能人や著名人と結婚した一般人は幸せか?
フォロワー100万人を超えている芸能人は幸せか?
煌びやかなステージで踊るアイドルは幸せか?
投資で大儲けした人、好きな人と付き合えた人、努力が報われて夢を叶えた人、は本当に幸せか?
大切なのは自分の幸せの尺度である。
たとえば、私の幸せはお金をたくさん稼ぐことよりも、平日のお昼にぶらぶらと時間を気にすることなく、澄んだ空気を吸いながら川辺を散歩をしているときのほうが幸せだ。
ほかにも、お気に入りの音楽を聞いているとき、ちょっといい豆を使ってるコーヒーを飲んでるとき、窓から入ってくる心地よい風で昼寝をしているときが、私にとって幸せな時間である。
自分が自分に対して「幸せそうに見える人」になる
みんなが憧れるから幸せなわけではない。
目に見える情報は常に主観的なイメージによって歪められ、真実から目を逸らしてしまう。
憧れや羨望は成長の鍵ではあるが、もっとも基本的かつ大切なことは見失っちゃならない。
つまり、「自分はどういうときに幸せを感じるのか?」ということだ。
他人の幸せをコピーしたところで、得られるのは他人にとっての幸せで満足している自分である。
それで本当に満足できるのであればいいが、他人の人生を生きて満足できる人というのは、自分で自分のことを決められない弱虫か、自分自身に対する偽善者であるかのどちらかだ。
幸せそうに見える人が幸せとは限らないように、「あの人のようになれたら幸せになれる」と他人の人生に期待するのはやめよう。
自分が自分に対して「幸せそうに見える人」になれれば、そこには本当の幸せが待っているだろう。
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