「利己的」と「利他的」ではどっちのほうが幸せに生きられるのか。

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最終更新日 2024年5月11日

一般的に「利己的」は自己中心的として揶揄されることが多く、「利他的」は優しさや思いやりがあると思われているだろう。

利己的で自己中な人間は周りから批難され、利他的で他人想いな人間が周りから好かれる。

たしかに利己的な人間は自分の利益ばかり考えている人が多いが、だからといって利己的なのがダメなわけではない。

なぜなら、そもそも人間は遺伝子的に利己的な生き物であって、すべての生物は自己保存と複製を目的に生きているからである。

では、利他的であることにはメリットはあるのだろうか?

もちろんある。

それは「利他的に生きることで、結果的に自分のためになる」というものだ。

 

利己的でも利他的になれる

利己的で利他的というのは一見すれば矛盾したものに思うだろう。

でも実際はそうではなく、利己的と利他的というのは互いに根底の部分でつながってるものである。

利己的だから利他的ではいられないわけではないし、利他的だから利己的ではないというわけではないのだ。

つまり、利己的な行動が利他的な行動に、自己中心的な行動が他人のためになる行動になることが現実の世界ではよくあるのである。

これは一体どういうことだろう?

たとえば、「他人に優しくする」という行動を考えてみよう。

おそらくほとんどの人は「他人に優しくできるのは利他的な人であり、他人想いな人だからだ」と思うだろう。

もちろんそうした人もいるだろうが、自分のために他人に優しくする人間も少なからず存在する。

同じく、「ほかの誰もやりたがらないことをやる」という利他的な行動であっても、利己的な人がその役を買って出ることもある。

行動だけを見れば矛盾しているように思うだろうし、辻褄が合わないだろう。

利己的な人間がなぜわざわざ利他的な行動をするのか、自己中心的な人がなぜ他人のためにめんどくさいことを引き受けたりするのか。

利己的か利他的かを考えるときに見るべきは行動ではなく、その行動に潜む「内的動機」のほうである。

 

利己的な行動が利他的になる

古代ギリシャのヘレニズム哲学の一派であるストア派の人たちは、「思慮・勇気・正義・自制」を行動原理としていた。

これら4つは「四元徳」と呼ばれ、ストア派は徳に沿って生きることを目的としている哲学である。

たとえば、ストア派が人に親切にするのは他人のことを思っての行動ではなく、そうすることが自分のため、つまり徳に沿った行動であると考えているからこそ他人に親切にするのだ。

困っている人がいれば助けるのも、他の人がやりたがらないことを率先してやるのも、すべては「徳に沿って生きる」という目的のためになされる行動であり、そこに潜んでいる内的動機は利他的ではなく利己的なものである。

つまり、利己的な目的に沿った行動が、第三者から見ると利他的な行動に見えるというわけだ。

他人に優しくするという利他的な行動の中には、「他人から優しい人間に見られたい」という利己的な目的が潜んでいる。

電車でお年寄りに席を譲るのは、「席を譲るという行動をしたことでいい気分になれる」という利己的な目的が潜んでいる。

他人がやりたがらないことを率先してやるという利他的な行動の中には、「他人から褒められたり、尊敬されたりしたい」という利己的な目的が潜んでいる。

こうした利他的な行動の内的動機として利己的な目的がある場合、利己的な人でも利他的になることができる。

極論を言えば、人間がおこなう利他的な行動のすべてには、何かしらの利己的な目的があるのである。

 

利己的と利他的ではどっちのほうが幸せ?

利己的な行動は、動機こそ利己的ではあるが、その二次的影響は他人や社会のため、つまりは利他的な行動となる。

では、利己的と利他的ではどっちのほうが幸せなのだろうか?

結論から言うと、利他的のほうが幸せを感じられる。

なぜなら、利他的な行動をすれば周りから喜ばれたり褒められたりしていい気分になり、その裏で利己的な目的も果たせるからだ。

一方、利己的な行動だと自分の目的は果たせたとしても、周りからは自己中心的な奴だと思われ、あまりよく思われないだろう。

人間の幸せには「他人からどう思われるか」という部分が大きく関係しているため、他人や社会から承認されない人は不幸を感じやすい。

つまり、利己的な目的に築かれることなく、利他的な行動をするのが最適な戦略となるのである。

こう言うとまるで「偽善者になれ」と言っているように聞こえるかもしれないが、個人的には人はみんなどこかしら偽善者だと思っている。もちろん、私自身も含めて。

他人に迷惑を与えない限りは、人は嘘をついてもいいし、利己的な目的に沿って利他的な行動をしてもいいと思っている。

仮にあなたが「他人から褒められたい」という利己的な目的のために、「他人に優しくする」という利他的な行動をしても、傷ついたり迷惑になる人は誰もいないだろう。

むしろ、あなたの利他的な行動によって、喜んだり良い気分になる人が増えるのである。

これはとても立派な行動だと言えるのではないだろうか。

 

利己的な目的のために利他的になる

利己的な行動が利他的な行動に、自己中心的な行動が他人のための行動へ。

何度も言うが、利己と利他は対立するものではなく相互に影響し合うものである。

実際、自分は利他的な人間だとか、優しくて他人想いな人間だと言っている人のほうが信用できなかったりする。

それならハッキリと「自分のために行動してます」と述べている人のほうが信用できたりする。

人間の本能は自己保存と自己複製にあるのだから、その確率を高めるための利己的な行動ほど信用できるものはない。

ストア派では利己的な行動と徳を結びつけることで、他人と社会との共生を見出している。

一般論での「自己中で生きよう!」という主張は本当に自分の利益しか考えていない人ばかりなので信用できないが、利己的な行動は少し視点を変えるだけでプラスにすることができる。

利己的な目的のために利他的に生きることで、人間は自分にも他人にも喜ばれ、幸せに生きることができるのである。

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