最終更新日 2024年4月27日
今の世の中では「普通」に生きることのハードルが高くなっている。
普通に学校を卒業し、普通に就職し、普通に働き、普通に結婚して車と家を持ち、普通に子育てし、いたって普通に生きていく。
人は一人ひとりみんな個性的な生き方をしている。
あなたから見れば他人の生き方が普通じゃなく見えることもあるし、他人から見ればあなたの生き方が普通じゃなく見えるものだ。
現代では、他人とは異なる生き方を目指す人が増えることにより、特別な生き方は特別ではなくなり、それが普通になっている。
よく「普通や常識に縛られてはいけない」と言われたりもするが、現代は普通に生きることのハードルが高くなっているため、「普通の生き方」の価値が逆に上がっているのではないかと思う。
SNSによって他人の生活が可視化されることにより、自分の生活よりも他人の生活ばかり見ている人が多い。
しかし、SNSの世界に映し出されている世界は決して「普通」ではないし「真実」でもない。
そこにあるのは生活の中で都合のいい現実を切り取った、単なる虚構の世界である。
普通は普通だからこそ普通なのだ。
だが、現代では普通が特別になり、特別が普通になっている。
そうした時代の中で、従来の「普通の生き方」をするのはとても難しい。
「普通」に生きるのが難しい
私自身、世間で言われているような普通な生き方はできていない。
そもそも、誰もが頭に思い浮かべているような「普通の生き方」というのはどこからやってきたのだろうか?
言うまでもないことだが、社会の中では「多数派」が「普通」になっていく。
つまり、「普通の生き方」というのは「大勢の人たちが歩んでいる生き方のこと」である。
周りの人たちを見て「普通の生き方」というイメージが頭にできると、それ以外の生き方が「普通ではない」ように見えてくる。
しかし、「普通」と「それ以外」というのは比較してはじめて認識されるものだ。
比較さえしなければ、自分の生き方を「普通じゃない」と思うこともないし、他人の生き方が普通じゃなく見えることもない。
人は常に何かと比較し、その物の価値を測ろうとするが、比較対象を間違ったものにしてしまうと何が正解かがわからなくなる。
壊れた物差しでテーブルの長さを測っても、実際にはテーブルが物差しの長さを測っているのだ。
「ウィトゲンシュタインの物差し」というやつである。
私にとっての「普通」の生き方
私は学校も途中でやめてしまっているし、就職は一度もせず、フリーライターとして活動して生活費を得ている。
お酒は飲まないしタバコも吸わないしギャンブルもやらない。
車や時計、ブランド品やファッションにも興味はないし、そもそも物欲そのものがあまりない。
友達も決して多いわけでもないし、どちらかというと人間関係にストレスを感じてしまうような人間だ。
割り切って愛想笑いしながら、その場の空気を読んで仲良く時間を過ごすことができないわけではないが、感じるストレスによって人間関係から得られる楽しさが相殺されてしまう。
毎日仕事と散歩と読書を繰り返し、こうして考えたことや思いついたことを好き勝手に書き綴っているときが一番楽しい。
GWやお盆、クリスマスや年末年始といった世間的なイベントにも疎く、病気にはなりたくないので毎日1時間筋トレとランニングをしている。
カフェインに弱くて夜眠れなくなるので飲み物は水しか飲まないし、美味しいものにも興味がないのでタンパク質中心の同じメニューを毎日食べ続けている。
さて、こんな生活をあなたはどう思うだろうか?
もしあなたが一般的に言う「普通の生活」をしている人間であれば、私のこの生活はおかしなものに見えるだろう。
実際、数少ない友達からも変な生活だとバカにされることも多い。
だが、私の物差しではこれが「普通に生きる」ということなのである。
生き方は自分で正解にするしかない
なぜ人は自分の生き方と他人の生き方を比較してしまうのだろうか。
それは、自分の生き方に自信が持てないからである。
- 「自分の人生はこんなものなのか、もっといい生き方があるんじゃないか」
- 「周りの人たちのようにしっかり生きたほうがいいんじゃないか」
- 「毎日繰り返すだけの生活で充実感がない」
そう思う感情が、他人と自分の人生を比較させるのだ。
他人が自分より楽しくなさそうに生きていれば、自分はこのままでいいんだ、と自分で自分を励ます。
逆に、他人のほうがキラキラ生活を送っていると、それと比べて自分はしょーもない人生を送っていると思ってしまう。
でも、結局のところ、生き方は自分で選んだものを正解にするしかないのだ。
他人と比べてどうとか、普通に生きられないからダメとかいうわけじゃない。
どんな生き方の中にも楽しさを感じる瞬間は必ずある。
その一瞬一瞬の楽しさを大切にし、自分の生き方を自分で肯定しながら生きていくしかないのだ。
他人や世間的な目から見て「普通な生き方」だけが正解なわけじゃない。
世間や他人の正解は、あくまでも多数派だからこそ正解だと思われているに過ぎない。
多数派の意見が大事なのも事実だが、人生の生き方の正解は自分の中にしかないのだ。
自分なりの「普通」を探して生きよう
生き方は自分で正解にしていくしかない。
そうは言っても、簡単には割り切れないのが人間である。
「自分らしく生きよう」「自分を信じよう」と自分で自分を鼓舞したところで、やはり他人と比べてしまったり、自分の生き方に自信が持てなくなるときもある。
でもそれでいいのだ。その迷いや葛藤こそが人生なのだ。
常に100%自分に自信を持ちながら生きている人はいない。
気分が乗らないときは迷い、苦しみ、悩んでしまうのが「普通」である。
そういう意味では、人は誰もが「普通に生きている」と言えるかもしれない。
迷いや悩みがない人生なんて、ソースのないパスタのように味気ないものである。
いつもの日常を離れ、非日常的な場所へ行くと、不思議と「普通」が恋しくなってくる。
これまで世間的な「普通な生き方」から距離を置き、自分なりの「普通の生き方」を探求してきた。
たとえ周りから変な目で見られたとしても、自分で自分を肯定できる生き方であればそれが正解である。
少なくとも、私はこれまでそう思って生きているし、これからもそうして生きていくだろう。
普通に生きるのが難しい現代では、幸せになるためには誰もが自分なりの「普通」を探して生きていかなければならない。
そう思う今日この頃である。
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