最終更新日 2024年5月17日
何をするにしても「意味がなければ行動できない」という人もいるだろう。
私もできる限り意味のないことはしたくないと思っているし、時間の無駄に感じるようなことは一切したくないと思っていた。
だが、最近気づいたことがある。
それは、「そもそも人生で意味のあるものは何もないんじゃないか?」ということだ。
一般的にはすべてのことに意味があると言われている。
昔は私も「どんなに無駄に思えるようなことでも意味がある」「無駄だと思うから無駄になるんだ」という考えを持っていた。
しかし、冷静に考えてみると、人生の中でおこなう行動のすべては無意味であり、世の中に存在する仕事のほとんども無駄であり、そもそも人類は空気を汚染し大地を汚し自然を破壊してる地球のガン細胞であり、人生自体に何の意味もないことに気づかされる。
「自分」という存在にしても、仕事の面でもいくらでも代わりはいるし、友達も居なくなったら居なくなったらで別の誰かと人間関係を構築するだろうし、恋人は別の誰かと結婚して幸せに暮らしていくだろう。
つまり、人生のすべてのものは無意味でまったくの虚構でしかなく、そこに「意味」を見出すのは自分の人生を慰めるための手段なのである。
近所の酔っ払いのおじさんが言うように、「真実は詩に似ている。でも多くの人は詩が嫌い」なのだ。
無意味な人生でも「やる意味」はある
ここまで読んだ人は、きっと内容の暗さにウンザリしているだろう。
書いてる自分もなんだか暗い気分になってきたし、今すぐスマホをゴミ箱にポイしてヘッドホンで音楽を大音量で聞きたくなってきた。
でもちょっと待ってほしい。
ここまでは今まで何度も考えたことがあったし、何度も人生に絶望して悩んだし、その度に自分を誤魔化してなんとか現在まで生きてる。
最近気づいたのはこの先の話。
つまり、「無意味な人生をいかに本気で生きられるか勝負」ってことだ。
まず前提として「無意味な人生」を受け入れる。
人生も仕事も恋愛も人間関係も何もかも虚構で意味がなく価値なんてない。それを素直に受け入れる。
この真実に反発するのは投資で逆張りするのと同じで愚かなことだ。真実からは目を逸らしちゃいけない。
でも、無意味な人生だからといって、「何もかもやる価値がない」わけではない。
というのも、物事には「意味」はないかもしれないが、やることで何かしらの「効果」が得られる。
その効果こそ、無意味な人生に意味と価値を生み出すのだ。
無意味な人生に価値を与えるもの
たとえば、筋トレに対して意味を感じない人は多い。
「別に筋肉なんていらないし、わざわざキツい思いをする意味がわからない」という言い分だ。
なるほど、たしかに理に叶ってる。筋肉が欲しくないのであれば筋トレをする意味なんてないように感じる。
しかし、私が筋トレをしているのは「意味を感じている」からしているわけじゃない。
筋トレから得られる副次的な「効果」のためにしているのだ。
もちろん、ここで言っている効果は「筋肉がつく」という効果のことではない。
私が筋トレから得ている本当の効果は「充実感」である。
この充実感こそ、無意味な人生に意味と価値を生み出すのだ。
仕事や恋愛に対して意味を感じない人もいるし、人間関係もいらないと思ってる人もいる。
たしかに人生のすべては無意味で無価値なものだ。
だが、「仕事を頑張った」「恋愛をしている」「気の合う人間関係を持っている」という事実に対して副次的な効果が生まれる。
それが充実感であり、充実感が無意味な人生に意味を与えてくれる。
無意味な人生を自己正当化する
カズオ・イシグロの「日の名残り」という本に登場するスティーブンスは、執事としての品格だけを求めてずっと生きてきた。
偉大な執事を目指しながら、父が死んだ時も自分にとって大事な同僚が辞めていくときも、スティーブンスは自分と感情を殺し、自分が思い描く偉大な執事として振舞ってきた。
しかし、休暇の旅の最後にスティーブンスは自分の人生に悩んでしまう。
「もっとほかの生き方があったのではないか?」と涙を流すのだ。
だが、今さら後悔したところで意味はないし、「ただ偉大な執事を目指して生きてきた。その事実が自分に自尊心と誇りを与えてくれる。それだけで十分人生は素晴らしいものだ」と悟る。
スティーブンスもまた、人生は充実感を感じられればそれだけでいい、と気づくのだ。
これは自己正当化にも感じるが、自分を正当化して幸せを感じられるならそれでいい。
周りに迷惑をかけない限り、自分を思いっきり正当化し、無意味な人生に意味を与えるのは生きる上で大切なことだ。
無意味な人生をいかに本気で生きられるか
何に充実感を感じるのかは人それぞれ違う。
スティーブンスのように仕事だったり、恋愛することで毎日が充実する人もいる。
友達と遊ぶのが充実した時間だと言う人もいれば、一日中ゲームをすることが自分にとって充実した時間だと思う人もいる。
しかし、世間では人それぞれ違うはずの「充実感」が商品化されている。
毎日を充実させるには早寝早起きが大事だとか、ゲームやテレビは無駄だとか、YouTubeを見てゴロゴロしてる奴はバカだとか言われる。
自分が充実を感じる時間は、他人も充実を感じると勘違いしているのだ。
人によっては科学だとか持ち出して「この研究では〇〇の人に〇〇の実験をおこなった結果、〇〇の効果がありました。つまり、〇〇をすれば充実感が増すということです」なんてことを言っている人もいる。
人間の抽象的な感覚に科学を持ち出して説明しようなんてペテン師のやることだ。
SNSのインフルエンサーもわかりやすく箇条書きで「理想的なライフスタイル」のようなものを見せつけているが、「それはあなたの感覚であって、ほかの人に薦めても合わないだろう」といつも思う。
だが、大多数の人はフォロワー数と権威力によって、あたかもそのインフルエンサーが述べていることは真実だと思い込んでしまう。
無意味な人生の中では、どれだけ充実を感じられるかが勝負なのだ。
日々の暮らしの中に充実感さえあれば、それだけで人は楽しく生きていける。
自分にとっての充実した時間。それだけを追求していけばいいのだ。
無意味な人生をいかに本気で生きられるか。
「丁寧に生きる」とは言わないが、一つひとつのことを一生懸命やっているだけで、充実感と達成感が一日のすべてを、そして人生をそれほど悪くないものに変えてくれるのではないかと思う今日この頃である。
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