最終更新日 2024年4月30日
世の中にはこんな言葉がある。
「言いたくもないことまで言ってしまう」
「聞きたくないことまで聞いてしまう」
「知りたくないことまで知ってしまう」
この言葉は今この瞬間に私がつくったものだが、世の中には「知らない方が幸せなこと」があるのも事実だ。
ましてや、現代のテクノロジーや機械といったものは、もはや開発者ぐらいしかその中身がどういう風になっていて、どういう原理で動いているのかはわからないだろう。
もし仮に、何かしらの物事に対する情報を知らなければダメなのだとしたら、ほとんどの人は不幸になってしまう。
知らない方が幸せなこと=無知の喜び
たとえば、テレビゲームが大好きで毎日ゲームに明け暮れて幸せそうにしている人に、「そのゲームってどうやって動いてるの?」なんて聞いてもわかるはずがない。
自転車や自動車の原理を知っていなければ乗ったらダメなんて言われれば、みんな一斉にひっくり返ってしまうだろう。
他の人が知らないことを知っていれば他人から尊敬されたり褒められたりするため、現代人はニュースやテレビ、SNSなどの情報を常にチェックしている。
だが、そうした人は「知らない」からこそ、今を楽しく過ごせているのだとは気づかない。
つまり、「無知の喜び」というものを手放してしまっているのだ。
知らないことは決して悪いことではない。むしろ、知らないことがあることがメリットになることもある。
もちろん、世の中のことを何も知らない世間知らずのままでいるのはおすすめしないが、考えなくていいことや知らなくていいことは、無理に考えたり知ろうとする必要はない。
現代は情報の価値が過大評価されていて、そのほとんどは実は知らなくていいことである。
ある意味、知らない方が幸せなことについて無理やり知ろうとするからこそ、人は不幸になってしまうのだ。
知らないからこそ楽しく生きられる
たとえば、恋人からの連絡が遅かったり、急にデートをドタキャンされたりすれば「もしかして浮気しているんじゃないか?」と不安になる人は多いだろう。
だが、それは「知ろう」とするから不安になるのであって、「知らないまま」でいれば特に不安になることはない。
恋人が今どこにいて、誰といて、何をしているかなんて、本来自分には「知る必要のないこと」であり、恋人からしてみれば教える義務もなければ聞かれる筋合いもない。
どれだけ二人が愛し合っていようが、結局のところ二人は他人でしかないのだ。
他人のことを過剰に知りたいと願うのは自分のエゴでありわがままである。
さきほどの自転車の原理のように、知らなくていいことは知らなくていいのであり、原理なんか知らなくても私たちは自転車に乗れるし、その気になれば自転車で日本1周だってできる。
それと同じく、恋人が今どこにいるか誰といるか、何をしているかなんて知らなくても楽しく幸せに愛し合いながら生きていけるのだ。
知らない方が幸せなことを、自分のエゴやわがままで知ろうとすると、人は不幸になってしまう。
知らない方が幸せなことがあるということが、実は幸せなことなのである。
「知らない方が幸せなこと」は知らなくていい
自由に生きているように見える人は、「自由」の定義をしっかりと理解しているのだろうか?
「自分は幸せだ」と実感している人は、「幸せ」という言葉の定義をしっかりと理解し、それを満たした上で幸せになっているのだろうか?
おそらくほとんどの人はそうではない。
私たちは「自由」や「幸せ」という言葉の定義なんて知らなくても、「自由」に「幸せ」に生きていけるのだ。
自由や幸せなんてものは人によって意味は大きく異なり、その人が持っている価値観や幸福論によって答えは人の数ほどある。
自転車の例と同じく、私たちは知らなくても皮膚感覚でそれが「何なのか」をしっかりと理解している。
特に人間の感情といった抽象的なものに意味や定義を求めるのはナンセンスであり、それだと「人生の意味や定義がわからなければ生きてはいけないのか?」ということにもなってしまう。
誰もが大切なことは、本当は頭の奥深くでしっかりと理解しているのだ。
言葉として言い表せられないからといって、その物事を理解できないというわけでは決してない。
大事なのは「知らない方が幸せなこと」「知らなくていいこと」「知る必要のないこと」を分別し、現代のように情報が過剰な社会の波に飲まれないように注意することである。
そして、他人との人間関係においても、友情、愛情、親友、恋人などの意味や定義など知らなくとも、友好的で楽しい時間を過ごせるのだと理解すること。
そうすれば「知らない方が幸せなこと」は知らないままでいられ、余計なことに気をとられることもなく、自分の人生をしっかり歩んでいくことができるだろう。
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