最終更新日 2024年5月10日
世の中には自分のためにはなるけれど、他人のためにはならないものがある。
人間は生まれつき利己的で自分勝手な生き物だと言われているが、その裏側には「他人のために生きる」という利他的な気持ちもしっかり存在している。
人間が本当に自分だけのことしか考えず、いつどこでも自分のことだけしか考えない生き物であれば、きっと私たちは今ここに存在していないだろう。
「他人のため」「社会のため」という言葉は人の心に響くフレーズだ。
「〜ため」という文脈で自分の行動を意味づけしていると、心の奥底から行動力が沸々と湧いてくるだろう。
実際、人は自分のために生きるよりも、他人のために生きるほうが力を発揮しやすい生き物なのかもしれない。
アドラー心理学で有名なアルフレッド・アドラーも「自分のことばかり考えているからこそ、人は不幸になる」と述べている。
私たち人間は、他人のために生きることが、結果的に自分のために生きることになるのである。
人間は他人のために生きる生き物
たとえば、以下のような行動を思い浮かべてみよう。
本を書くこと、曲を作ること、絵を描くこと、写真を撮ること、小説を書くこと、何かしらのモノを作ること。
どれも自分のための行動に見えるものだが、どれも「他人のために」という意味づけができる活動でもある。
本を書くのは誰かに何かを伝えるため。曲を作るのは聞いてくれた人に力を与えるため。絵を描いたり写真を撮るのは見た人を感動させるため。小説を書くのは読む人を楽しませるため。モノをつくるのは社会をより良くするため。
こうした活動は「他人」がいてはじめて意味を持つ行動であり、誰にも見向きがされないのであればほとんどの人がやめてしまうだろう。
実際、「他人の評価なんか気にしない」という人もいるが、そうした人のほうが実は他人のために行動していたりする。
どこまで行っても私たち人間は「他人の目」からは逃れることはできず、他人のために生きることに喜びを感じる生き物なのである。
誰しも「他人のために生きたい」本能がある
人がおこなう多くの行動の中には、「自分のため」と「他人のため」の両方の感情が混じっていることが多い。
人は自分の楽しみのために本を書き、知らない遠くにいる誰か他人のためにも本を書く。
「自分のため」と「他人のため」という気持ちは対立するものではなく、互いに影響を与えるものなのである。
つまり、「自分のためなくして、他人のためなし」であり、「他人のためなくして、自分のためなし」ということだ。
いくら人間が利己的な生き物だとしても、自分のことだけを考え、自分のためになることしかしない生活を送っていると、そんな人生や自分に嫌気が差してくるだろう。
自分の人生だから自分さえ楽しめればいいと思っていても、「他人のために生きたい」という本能がそんな自分に抵抗する。
たとえば、お金のためだけに仕事をしている人が、やりがいや充実感という感情を感じられず、嫌気が差して仕事を辞めることが多いのがいい例である。
しかし、他人のためだけに生きるのも、「自分の人生なのにどうしてこんなことしてるんだろう?」と嫌気が差してくる。
芸能人が「自由になりたい」「普通の人生を送りたい」と引退するのがいい例である。
「利己心」と「利他心」には、互いにないものねだりな側面があるのだ。
自分のためだけに生きていると他人のために生きたくなり、他人のために生きていると自分のために生きたくなるのである。
他人のために生きることが自分のためになる
何か行動するときに大事なのは、自分のために生きていると感じる利己的な心と、他人のために生きていると感じる利他的な心をバランスよく持つことである。
自分のためと他人のためは、どちらかを満たしているだけでは成立しない。
自分のために生きつつ、他人のために生きなければ、自分の人生に意義が感じられなくなってしまう。
たとえ自分のために生き、常に自分だけを満たす生き方をしていても、自分の行動が他人や社会にとって意味がないと感じてしまうと無気力になるだろう。
逆に、他人のために生きると決めても、それで自分の時間がごっそり奪われてしまうのであれば、自分の行動が他人のためになっているとわかっていても、やはり段々と無気力になってくるだろう。
さきほども述べたとおり、利己心と利他心ないものねだりであり、今の自分にないものを求めてしまう。
だからこそ、「自分のため」と「他人のため」のバランスを保つことが大事なのである。
他人のために生きる行動が、自分のためにもなっている状態。
これがもっとも満足度が高く、心が満たされた状態である。
他人のために生きることで、自分を満たす方法を考える
他人のために生きるときに気をつけたいのは、自分のためにはなっていないのに、他人のためになっているから「自分は満足している」と思い込むことだ。
そして、人間が本質的には利己的な生き物である事実から目を逸らさないいこと。
人間は結果的に、自分のためにならなければ満足できないのだ。
リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という本の中では、「人間は遺伝子の乗り物に過ぎず、子孫を繁栄させるという遺伝子の目的に沿って人間は行動している」と述べられている。
つまり、人間が自分のための行動をとるのは自然なことであり、他人のために生きようとするのは不自然なことなのである。
だが、他人のために生きることで、結果的に自分のためになるのであれば、遺伝子に反した行動ではないため、そこには充足感が生まれる。
他人のために生きることで満足が感じられない人は、他人のためだけに生きているからであり、他人のための行動が最終的に自分のための行動になれば満足が得られる。
他人のために生きることが、周り回って自分の利益につながることが一番満足度が高いのである。
「自分のための行動」を「他人のため」に結びつけ、利己的な行動が他人や社会の役に立つようにする。
大事なのは、他人のために生きることで、自分を満たす方法を考えることである。
何か心が満たされない人は、他人のために生きることを考えてみよう。
他人のためと自分のためが結びついた行動を見つけられれば、今までにない深い充足感を感じられるだろう。
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